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2024年になったのか
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【ボクと一条教授】



ボクは天才が嫌いだ。





350年、誰にも解くことができなかったフェルマーの最終定理を、ボクはわずか10歳で習得した。


「今日はフェルマーの最終定理を教えます」


xn + yn = zn 

黒板に書かれた文字を、ボクは手元のノートに書き写した。


「イコールで結ばれたxn + yn zn は等しくなければいけません。それが、方程式の解をみつけるということです」


肉付きの薄い指がチョークを握る。一条教授は黒板の前に立っていた。図書館ほど広い部屋には、40を越える本棚と、3つの長机と、黒板がある。


「nが2である場合、フェルマーの定理には含まれません。それはなぜか」

「nが2の場合だと、x²+y²=z²になるからです」

「もう少し詳しく」

「直角三角形の、三平方の定理です」

「正解です。nが2の場合はフェルマーの最終定理には含まれません」


一条教授が黒板に向き直る。
x、y、zに3,4,5が代入されて、すべてが二乗される。


「3の二乗+4の二乗=5の二乗」


3×3+4×4=5×5
9+16=25
25=25

一条教授はn=2である場合を証明する。


「さて、ではnが2以外の数である場合を考えてみましょう。nは固定された整数です。たとえば3,4,5」


n=3,4,5
x、y、z=anknowns

ボクは、突如現れた英語に首をかしげた。


「きょうじゅ、英語が読めません」

「アンノウン。未知という意味です。数学では未知数として使用されます」


アンノウン。そういえばポケモンにアンノーンというキャラがいる。あれは未知という意味だったのか。ボクは隣の席のミキちゃんに教えてあげようとこっそり思った。ミキちゃんはいつもボクを「頭いいね」と褒めてくれるから好きだ。


「ではここで、ある数学の概念を紹介します。時計算術です」

「時計算術?」

「午前8時に会社が始まります。7時間働くと何時になりますか?」

「15時です」


8+7=15
黒板に簡単な数式が書かれる。


「時計で言うと?」

「3時です」

「どうして3時なのですか?」

「時計は1時から12時までしかないからです」

「そうですね」


8+7=15
On the clock↓
8+7=3

クロックは時計という意味だ。ボクは頭がいいから、身近なものなら英語でいえる。


「短針が12を越えると0になります。つまり13は1になる」


13→1 =13-12
14→2 =14-12


「これが時計算術です。数学ではモジュロ演算といいます」

「もじゅろ…」

「余り、という意味です」


13=1 modulo12
モジュロ、とはそう書くのか。またひとつお利口さんになってしまった。


「13は、12を法として1に等しいと表現します。原理さえわかれば、数は12である必要はありません」


教授は黒板に『素数』と書いた。


「覚えてますか」

「2,3,5,7,11です」

「言葉で説明すると?」

「1と自分以外で割り切れない正の整数です」

「1は素数に含めますか?」

「含めません。慣例として、1はすべての数の基準、単位のようなものです。だから最初の素数は2から始まります。偶数の素数は2だけです。それ以外はすべて奇数になります」

「パーフェクト。ちなみに素数はpで表します。覚えておきましょう」


p=2,3,5,7…と書き加えられた。ボクはノートにメモを取る。


「さて、フェルマーの最終定理での条件は、正の整数という条件で解を見つけることです。だけど、正の整数では解は…」








夢はそこで覚めた。
ボクは鈍器で後頭部を殴られ、気を失っていた。

「いててて…あれ?」

大変だ。財産の6割を投資して買った車が盗まれた。しかもうちの生徒に。

「あちゃー…」

あれは萩原彩未だった。

彼は理科Ⅲ類の生徒で、稀にみる天才だ。教授が書いた論文の矛盾を指摘しては嬲るようにニヤニヤしていた横顔を覚えてる。性格が悪いのだろう。医学部は楽しくないと言っていた。たぶん彼は医学ではなく人に興味がないのだと思う。

そういうところも一条教授にそっくりだ。

「…うーん。どうしよう」

車がない。ということは家に帰れない。世界が終わるまで、あと3時間。
交通機関が機能しているとも思えない。

ボクはしばらく駐車場に立ち竦んだあと、自転車置き場に並べられた自転車の鍵を確認した。





その塾は山のてっぺんにあった。

一番高いところにそびえる屋敷を、個人塾だと知ったのは小学生にあがってからだ。肝試しと称して忍び込んだボクたちに、「いまは開講時間外です」と声をかけてきたのが一条教授だった。お化けだとおもったボクは、あのとき死ぬほど驚いた。

この寒空のした、自転車を走らせて教授の家を訪ねると、彼は目を丸くした。


「これは大変だ」
「すみません大変なとき」
「客用のコーヒーを切らしてるのですが、ダージリンでも構いませんか?」


3年ぶりに会う一条教授は、相変わらずの天然だった。





この世には、天才という言葉でしか説明できない存在がいる。それが一条教授だ。

彼は大学で研究室に入り、学士を取得し、大学院前期・後期課程を終えて博士号を手に入れた。

助手時代は人生で一番過酷だったらしい。時間外労働が100時間にも及び、実験機材の修理や実習指導に忙殺されたという。人間が苦手な一条教授は、好きな分野で嫌いな人間と関わらなければいけないラボの仕組みを恨んだと語る。

教授という職業は、おおよそ60歳なかごろで定年を迎える。20年に1回のペースでポストが空くのだ。
一条教授は優秀な論文を発表し、数学という分野にしてはかなりの最短距離で、教授の座についた。彼は生まれながらにして学術に秀でていた。教授は数学を愛していたし数学もまた教授を愛していた。

彼は天才だ。



客室ではなく、なぜか教室へと通された。
あのころと変わらない位置にある黒板、机、本棚。ボクが塾生として通っていた頃から、一秒たりとも時を刻んでいないような教室は物静かで、世界の終わりなんて来ないんじゃないかと思うほどだった。


「教授は、死ぬのは怖いですか?」
「それは肉体が滅びることについての質問ですか?」


教授との会話はいつもこうだ。質問の質が悪いと質問返しを喰らう。ボクはあの頃と同じ席に着席した。机を挟んで、教授が正面に回りこむ。

「そういえばミレニアム懸賞問題のあれ」

机の上にマグカップを置いた一条教授は、おもむろに言った。

「全問解きましたよ」

ボクは椅子をひっくり返して立ち上がった。

「本当ですか」
「本当です」
「アナタは数学界の神だ」
「キミは昔から私を神聖視するきらいがありますけど、直したほうがいいですよ」
「肝に銘じておきます、来世で」


あと数時間しか持たない地球を、このとき初めて恨んだ。ミレニアム問題とは、アメリカのクレイ数学研究所が100万ドルの懸賞金をかけている、7つの未解決問題である。すべての説明を聞きたいのに時間がない。

一条教授は優雅に足を組んでボクをみた。

「どの証明がみたいですか?」

聞けるのはひとつだけ。
ボクは悩まずリーマン予想を選択した。


リーマン予想を砕いていえば、規則性のない素数の並びに意味をみつけることである。『数とはなにか』という根源的な問いだ。

素数とは、この大宇宙が従う自然法則にかかわる、人間の知性を超えた数字である。これはボクと教授の共通する考えだ。

素数は単体でみると美しくない。2,3,5,7,11,13…。みるからに無秩序である。しかし、この無秩序な素数の存在が集まると、宇宙の究極の美、円を作りあげる。この事実は、素数が自然界の構成要素であることを示唆している。

リーマンはゼータ関数によって、素数の並びに意味はあるか?という漠然とした問いを、すべての0点は一直線上にあるか?という数学の問題に焼きなおした。

世界には必ず法則がある。その法則はすべて素数で証明することができる。素数を理解することは、宇宙を理解することである。



2時間半にも及ぶ証明だった。

ボクは手が痺れるほど紙に数字を書き並べ、一条教授はチョークの粉で手が真っ白になるほど丁寧に説明してくれた。

「…以上。リーマン予想の答えです」

数学的に厳密な証拠が解明された。
人類史上最大の数学の難問は、一条教授の手によって美しく解き明かされた。

かたつむりの渦巻き、台風、銀河など、自然界のあらゆるところでみられる螺旋の形が、一本の線で繋がった。素数には完璧な調和が存在した。

「なにか質問はありますか?」
「…あ、りま、せん」
「そうですか」

そう言って、教授はチョークを置いた。
地球最後の日、ボクは宇宙を支配する物理法則を理解した。

圧巻の一言だった。数学界に君臨する一条教授をぼんやり眺める。この男は神だ。彼の頭脳には宇宙を支配できる数学が広がっている。


どうして今日、世界は彼を讃えずに終わるというのだろう。ちっぽけな島国の、海が面する田舎の小さな塾に、宇宙の謎を解き明かした神がいるということを、誰も知らない。これは地球だけの問題じゃない。

もし地球外に生命体がいるとするなら、我々は彼らにこの証明を託す義務がある。

「実は、私がリーマン予想を解いたのは、二年前なんです」

耳を疑った。
ボクは一瞬、燃えるような怒りを感じたが、すぐに考え直して感情を押さえ込んだ。

たとえばもし、宇宙のすべてを支配できる鍵をボクが握っていたとしたなら、想像を絶するほどに恐ろしいだろう。教授は世界の真理を解読した。眠れない夜もあっただろう。

複雑な感情が顔に出たのだろう。
一条教授はボクをみてにこりと笑った。


「頭の良し悪し、とは一体なんでしょう?」
「は?」
「キミが思う『頭が良い子供』とは?」
「…遺伝子、でしょうか」
「好奇心ですよ」


一条教授は言い切った。

「世界に不思議がなくなってしまったら、子供の楽しみがなくなってしまうでしょう?」





昔、将来のゆめについて、教授に相談したことがある。
たしか高校生の頃だ。なれるものとなれないものが分別できるようになった年頃で、なりたいものの険しさを突き付けられた時期だった。

数学の教授になりたい。

ボクは教授にそう言った。
学校の進路相談では医者を目指すといったそのくちで、本音を吐いた。
博学で、頭が良くて、ボクが疑問に思うことすべてに答えをくれた、一条教授と同じものになりたかった。自分の探究心をとことん極めたかった。

『なりたいものが決まったなら、備えなさい』

教授は言った。
彼の言葉に、どれだけ支えられただろう。



小さい頃のボクは無敵だった。
一条教授という虎の威を借る子狐だった。


天に向かって燃え上がる炎を、ボクはじっと眺めていた。


図書室ほどの大きさの教室にガソリンを撒いたのはボクだ。足腰の弱い一条教授は「キミは健康だねえ」とボクをねぎらった。ボクは苦笑いしながら、だだっ広い教室の隅々にガソリンをぶっかけた。小学生のころに興味本位で眺めた本、受験のときお世話になった赤本、一条教授が大金をかけて手に入れた絶版書。

ありとあらゆる場所に、思い出が詰まってる。
複数のセミが一斉に鳴くのを聞きながらえんぴつを握り締めた夏期講習、雪の降る日に何度も往復した冬期講習。受験合格した春。気を抜いて進学クラスから外れた秋。

濡れていく紙をみて、少しだけ泣いた。

『本当に、いいんですか』
『はい。ありがとうございました』

数学と共に眠りたい。
それが一条教授の、望んだ最期だった。赤本を指先でなぞりうっそりと微笑む教授の瞳に、ボクは映っていない。

『数学は私の一番の友人ですから』

昔のボクなら言っただろう。どうしてそんなことをするんだと。子供は死が一番怖い。人生を歩むうえで、命より貴いものをみつけた大人の気持ちなんて、きっと微塵も理解できない。あの頃のボクは、命が有限であることの尊さを知らなかった。

一条教授と過ごした季節を思う。
肉親より親友よりボクの人生に影響を与えたただ一人の存在。

燃え盛る炎の先端を、瞳に焼きつける。
この世の英知が燃えている。

天才とは、なんて寂しい生き物なのだろう。己の死すら笑顔で受け入れてしまった一条教授の孤独を思う。彼は数学に愛され、彼もまた数学を愛していた。


一条教授は生涯、一度もボクの名を呼ばなかった。


「う…あ、…っ、……」


教授の死を悲しんで膝を折り、顔を覆うボクの涙を、彼は知らない。なんのためにここに来たのか、知ってる癖に知らないふりをした彼が憎くてたまらない。


ボクは天才が嫌いだ。

一緒に逝くことを許してくれなかった一条教授の、つめたい優しさが心底嫌いだ。死を弔えとボクに命じた教授が嫌いだ。


地球が終わるまで、あと1時間。
数学と共に先に逝った一条教授に、ボクは静かに黙祷を捧げた。




fin.

あなたはいきて





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