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2024年になったのか
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【彩未と美月】


小学校4年。
夕焼け小焼けの音楽が流れると、美月はいつも寂しがった。

「まだ帰りたくないよ」

一の字に結んだくちびるを歪ませて、おれの服を掴んで揺らす。自分のわがままを理解してるのだろう。賢い子だ。だから上手に甘えられない。

大きな瞳に水の膜が満ちていく。

「みつき」

ぱんっと両手を打った。驚いた美月が跳ね上がる。

「糸電話を作ろう」

「…いとでんわ?」

「そう。普通の電話だと金がかかるから母さんが怒るだろ。でもこれなら誰にも迷惑かけない」

「…糸電話すると、みつきがねるまでお話できる?」

「できるよ。いっぱい話そう」

おれは家をみあげた。赤いレンガの二階建て。青いレンガがおれの家だ。似たり寄ったりのつくりをしている。駐車場を挟んだ斜め向かいの家。距離にして10メートル。美月と自分の部屋を交互にみる。

「こないだバーべキューやったときの紙コップが余っただろ。あれ持って来い。おれは家から糸探してくるから」

部屋と部屋を繋ぐ糸の長さを考えながら提案する。美月はきらきらした目で大きく頷いた。

何時に掛けるから電話の前にいろよ。ささやかな約束が、ひとつふたつと増えて習慣に変わる。金の要らない素朴な遊びさえ楽しかった。

「あやみちゃん!」

幼かった。今でこそ思う。

たとえば紙の裏と表を引き剥がせないように、美月の存在はそこにあった。家族とも恋人とも兄弟とも親友とも呼べる。愛とも恋とも区別しがたい。

美月はおれの居場所だった。







教室のドアを開けた瞬間、道路に飛びだす猫のようにびゃっと出てきた谷口に腕を掴まれた。近い。

「ちょっと近いんだけど」

「おまえ椿先輩付き合ってるってマジか!」

「近い」

うわさは混合物だ。真実も嘘も混じってる。
4時間目が終わる時刻を見計らって登校したおれは、昼休みの教室でさっそく捕まった。まだカバンすら置いてない。

「邪魔。どけ」

「アーヤって薄情! なんでそういう話を秘密にするの?」

「ど、け」

この世の終わりみたいな顔をする谷口を突き飛ばして椅子に座る。肩に下げたカバンを開いて財布を取りだした。使う予定は無いが念のため。もう片手では携帯を操作してラインを送る。

教室にいる【既読】

文字を送るとすぐ既読がついた。うさまる、という無表情のウサギが走りだすスタンプが送られてきた。最近美月が謎に愛用しているうさぎだ。おれもダウンロードした。

「また幼馴染?」

谷口が背後に回る。後ろから携帯を覗き込んでくる視線はシカトした。

「アーヤって学校に何しにきてんの」

「出席日数稼ぎに」

「もう手遅れだろ。欠席日数やばくね」

「卒業できれば問題ねぇよ」

「大学行かないの?」

「おれ一般で受けるから」

「何学部?」

「おまえ質問多すぎ。どんだけおれに興味あんだよ」

「あ、そうだよそれ!」

谷口が大声を出す。隣で弁当を食ってた女子たちがビクッと揺れた。おれは谷口の腹に肘鉄を決め込んだ。うるさくしてごめんねーと手を振る。谷口が顔をあげた。

「マジで痛かったんだけど…」

「躾だよ」

「アーヤ、意地でも椿先輩のこと話さないつもりだな」

「つーかその『椿先輩』だけど、」

「あやみちゃん」

椅子をひっくり返す勢いで立ちあがると谷口が素早く椅子を支えた。ドア前に美月がいた。上級生の視線を気にしてかそわそわと視線を動かしている。人を警戒する猫みたいだ。撫でたい。そんな美月を眺めたまま谷口に話しかけた。

「5限終わったら第二科学室にカバンよろしく」

「アーヤっていつもなんで教室寄るの?屋上に直行直帰すれば?」

「カバン持ち歩いてフラフラしてたら、学校来てなかったことバレるだろ」

「勘が鋭い美月ちゃんにはどうせバレるよ」

おれは谷口をしっかりとみて微笑みかけた。

「美月のこと名前で呼ぶのやめろ」

谷口は何かを言いかけて口を開いたが、笑顔で黙殺した。






高校2年。
付き合ってほしいと言われた。元カノと別れて3日しか経っていないので無理と答えた。離れた人間に義理立てするほど誠実じゃないおれの断り文句はもちろん建前だ。単純に面倒だった。前の彼女がヒステリックだった事も影響してる。丁重に断った。

『彼女は無理かぁ』

女は宝くじでハズレを引いた子供のような顔で残念がった。そのとき初めてまじまじとみた女の顔は整っていた。こんな綺麗な女をフッたのかと砂粒ほどの後悔をした。その後悔が伝わったのか、女は唇を尖らせて挑発するように笑った。

『じゃあセフレは?』

だったらあり。ここで承諾したおれもおれだが提案した女も女だ。尻軽というか肝が据わってるというか。

そんな理由からおれと椿は急激に親密になった。
その変化が周囲からは恋にみえるのだろう。正直ヤることはヤッてるので黙認してる。








大学1年。
静かな春の夜だった。半開きの窓から吹き込む風が柔らかく、薄っぺらい掛け布団をじゃれあうように取り合ったあと、電気を消した。

「わぁ真っ暗」

「ベットつめろ。狭い」

夜がすべてを呑みこんだ。そこにあるのは気配だけだ。おれともうひとり。美月の。

「枕どうする?」

「おまえ枕までおれから奪うつもりか」

「半分こしよ」

「もういいわ。勝手に使え」

生き物が活動すると、皮膚の表面に電気が発生する。とても微弱な電気だが、人はそれを体毛で感知する。これが『気配』と呼ばれるものの正体だ。

美月が笑う気配がした。

「あやみちゃんは優しいね」

ひとつのベッドにふたりの男女。残念なことに美月の無防備さを据え膳だと思ったのは初めてじゃない。

「優遇されてる自覚があるならもっと謙虚になれ」

闇に慣れた網膜が隣で眠る人間のシルエットを映し出す。もこもこしたルームウェアに身を包んだ女がころんと寝返った。反射で舌打ちしそうになる。

足や肩が美月に触れないように気を使う。性別の垣根すら越えて懐いてくる美月に邪な思いは抱かない。昔からの習慣だった。

「もっと壁際つめれるだろ。ベットも枕も貸してやったんだから、せめておまえは自分にできる最大限の配慮をしろ」

「もう充分つめてるよ! 背中壁に当たってるよ!」

女は声が変わらない。
記憶の奥底に眠っていた幼い日の美月が、いまの美月と重なった。まるであの頃の自分たちがいるようだ。子供の頃は何度もこうして隣り合って眠っていた。春は特に美月の精神状態が不安定になる。

卒業、入学、クラス替え、進学。美月は『門出』と呼ばれる数々の岐路に怯えていた。先行くおれと道を違えるのが怖かったのだろう。どうして同い年じゃないのと理不尽に責められては泣かれた日々を思い出す。美月の部屋に忍び込んだ夜は手を繋いで眠り、夜明けを待たずに帰宅した。

一番最初に忍び込んだ夜も春だった。
たしか嵐の夜だ。

「…むかし糸電話作ったよな」

季節の匂いは時に記憶の呼び水となる。
庭の裏に咲いていた菜の花を摘んでいる美月の後姿が蘇った。小学校の頃だったか。ツインテールに結った髪が風に揺れて綺麗だった。

「ガキの頃。おれが引っ越す前」

「あー。あったねぇ」

「あれどうしたんだっけ?」

「糸が切れたんだよ」

カーテンの隙間から零れた月明かりが、美月の身体をぽっかりと浮かび上がらせる。

「切れたっけ?」

「切れた。雨の日に」

「よく覚えてんなぁ」

無防備に晒された美月の顔を眺めながら遠い記憶に思いを馳せた。

自分がどんな子供だったかは覚えていない。だけど美月の、たとえば柔らかい髪の感触だとか、学校で摘んできた花をおれの家まで届けに来たときの笑顔だとか、そういう記憶は残ってる。

おれの世界は美月を軸に回ってる。どの季節、どの日常を切り取っても美月がいた。

「懐かしいねぇ糸電話。あの頃はまだ携帯がなかったから」

おぼろげな記憶の片鱗を愛でるように美月は言った。くすくすと笑う声が闇に溶ける。

普段の美月は凛としている。女の佇まい。いつの間にかそういうものを身につけ始めた幼馴染は、人前でおれを「あやみちゃん」とは呼ばなくなった。なのにいまおれに甘える美月はどこか拙くて幼い。少女と大人。その中間地点にいる女独特の妖艶さを感じた。

「懐かしいな」

成長した。お互いに。おれはだんだん男になって美月はゆっくり女に変わる。

「あやみちゃん覚えてない? 糸電話が切れるギリギリまで喋ってたんだよ」

「そうだっけ」

「風で糸がひっぱられて、ブチッ!て音がしたの覚えてるよわたし」

「何日持った?」

「十日くらい」

「短命だな」


――彼氏ができた、と真夜中に伝えにきた美月の真意はわからない。わからないけど、おれには美月を祝う義務があった。

『花火するか』

支離滅裂な発言をした。突然すぎたのだ。プレゼントも赤飯もクラッカーもない。苦肉の策で花火を提案したら美月がきょとんとした顔で「わかった」と言ったので、マンションの屋上で花火をした。帰宅したときには深夜0時を過ぎていた。美月の家までは徒歩で1時間かかる。

遅いから泊まってけ。断腸の思いでそう告げたら、美月はなにひとつ疑問を抱かず頷いた。

免許を取ろう。そう思った。これはいけない。家に泊まる癖がつく。警戒心のない顔でベットに乗った美月をみて確信する。

部屋に招いたことはある。
しかし泊めるのは初めてだ。

『おい、床に布団敷いただろ』

『私もベットがいい』

『はあぁ?』

おれは美月のように何もかも純粋なわけじゃない。包み込んで守りたい保護欲も、押さえ込んで暴きたい凶暴さも兼ね備えている。あまい声としろい肌。おれと違うものはすべて毒だ。だから遠ざけた。美月から性を感じたくない。どんなに心を許していても男女という認識は常にあった。

『どうしてもベット?』

『どうしても』

『…わかったよ』

おいで。
そう言って招けば、美月はぶつかるように飛び込んできた。

他人を大切に思う気持ち。男女はそこに分岐がある。どう大事にするか。妹のように可愛がるか、女のように甘やかすか。比重はどんどん後者に傾きつつある。不治の病に付き合うように騙し騙しやってきたが、限界が近いことは理解していた。

おれはもう美月の隣で眠れない。

「おまえって、どーでもいいことばっかり覚えてるんだな」

「どーでもよくないよ。わたし糸電話って発想に感動したもん。あやみちゃん天才かと思ったね」

「おれは天才だよ」

「知ってるよ」

幼馴染なんて曖昧で不確かな関係は簡単に終わる。それこそ、かつて雨に途切れた糸のように。

それでもおれたちは離れなかった。

引越しに卒業に恋人。離れる理由をいくつも乗り越え寄り添った。たくさんの門出を経験して、別れの季節が巡り、それでもおれは美月を手放さなかった。

手放せなかった。

「明日何時に起きんの」

「んー…朝の6時くらい」

「じゃあもう寝ろ」

「…ん。おやすみ」

「おやすみ」

体温も鼓動も吐息も、すべてがだんだん重なって一つになる。視界から美月を外すよう寝返りを打てば月が見えた。夜空だ。おれがなにより好きな時間帯。


中秋の名月。
月がいちばん美しいといわれるその日、美月は産まれた。
美月の母は出産後に病室の窓からみえた満月にパワーのようなものを感じたのだという。あながち間違いでもない。月には大きな海を動かすほどの力がある。
当初、美月はフルムーンの意味を込め「満月」と書く予定だったが、それだと姉の「優月」の名を呑むため、漢字を変えて「美月」となった。のどかで風流な美しさ。名は体を現すという。

美月という麗しい音色をもつ幼馴染。
おれが唯一、大切にしているものだ。

この世界の何よりも。









移り香を消すように、連れ込んだ女をベットで抱いた。

椿は利口な女だ。はじめは動揺して詮索してきたが、すぐに観念して口を閉じた。話し合って解決できる問題ではないと察したのだろう。理解が早くて助かる。言葉で心を癒す趣味はない。

「誰のこと想像して荒れてたのか知らないけど、ベットで他の女と呼び間違えなかったから不問にしてあげる」

図星を指されて見繕うのは無様だと思ったので素直にごめんねと告げた。

「おれが名前間違えたら殴った?」

「そこまではしないけど、次はないわね」

「捨てられないように努力します」

「好きなの?」

「セックス?好きだよ」

椿は、鋭い。触れるなと匂わせれば深入りしない彼女の性格は知っている。良い女だ。今まで出会ったどの女よりもリアリストで感情の制御ができる。恋ではないが敬愛してる。

「椿のことは女として一番好き」

「なにそれ。比較して優劣つけないと人を好きになれないの? もっとスマートに口説いてよ」

「大学を卒業したら結婚しよう」

言葉を失った椿の唇がうすくひらいた。衝撃のあまり瞬きも忘れてる。その顔を可愛いと思った。細い腰を引き寄せてにっこり笑う。どんなに細くても女は柔らかい。

「椿」

噛みつくようにキスをした。舌を差し込む。ハッと我に返った様子が見て取れたが構わない。好きなように蹂躙して腰を撫でた。
もし人間の体温が36度で固定されていたとしたら、触りたいという欲求は半減するだろう。違うから触れるのだ。人は皆。

勢いがつかないよう、優しく押し倒す。

「やめてよ。嘘つき」

やけにハッキリした声で断られた。気分が萎える。そこは掠れた声で震えるべきだ。目を細めて裸の身体を見下ろした。

「なにを。どっちを。セックスを? 結婚?」

「その冗談を」

「どっちが冗談に聞こえたの」

「両方よ」

もし両方本気だったらどうするのだろう。この女は自らの失言のせいでおれを逃すことになる。

「残念。フラれちゃった」

煙草でも吸おうか。デスクに視線を流すと、指を爪先で弾かれた。椿が甘えを見せたのはその一度だけで、そのまま背を向いて毛布に包まってしまった。

さすがに今この場から立ち去るほど馬鹿じゃない。
ベットに侵入して腕を回す。

「おれさ、夜の暗さって好きなんだよね」

「どうして?」

「明けるから」

朝が来るから。
椿は笑う。あやすように背を撫でる。

「それは朝が好きなのよ」

「夜の後に朝がくるから良いんだよ」

「あなたには好きなものが多いのね」

遠くで車の走る音がした。世界の果てはどこいあるのだろう。目を閉じれば美月と違う匂いがした。酷く安心する。ここ最近はずっとベットで眠ることなどできなかった。

「地球が誕生した最初の日に、おれらがいるこの場所は、朝と夜どっちから始まったと思う?」

薄く目を開いて椿をみる。
くだらない空想に呆れることなく、椿は満腹の猫みたいな目で細く笑んだ。

「どっちでもいいじゃない。どうせ両方くるものなんだから」

「卵が先か鶏が先かって聞いたことない?」

「永遠に繰り返していくものに『最初』は存在しないわ」

「始まりがあるから鶏も卵も存在してるんだよ」

「わたし鳥嫌いだし卵アレルギーだし、心底どっちでもいい」

「おまえの潔いところ好きだわ」


ふふ、と椿が笑う。


「人の名前は本質を示すって言うでしょう。わたしね、自分の名前気に入ってるのよ。祖母は縁起が悪い名だって言って、わたしの名前を嫌うけど」

笑っていたが、椿の目は真剣だった。
冬に咲く椿の気高さ。花が首から落ちる潔さ。彼女が持つ美学の起源は、他人への反発心が生んだ副産物なのかもしれない。親に与えられたいちばん最初のプレゼントである己の名を、親族から否定される気分はどんなものだろう。

つばき。気取らぬ優美。椿の花言葉だ。背伸びをしない、ありのままの美しさ。

「あやみの由来は未定の彩りって意味でしょ。よかったわね、『彩りの末(マツ)』でアヤスエなんて読ませる名前じゃなくて」

「アヤスエくん良いじゃん。これ以上進化できない最終形態って感じ」

「あなたは『彩未』のほうが全然似合うわ。完成してるものって変化がなくてつまらないもの」

その言葉に薄く笑って、小さい身体を抱き締める。椿は長い髪を後ろに流しておれの首筋に唇を押し当てた。

「あなたと話してると退屈しないの。美人とか綺麗とか褒めるだけの男とは違うもの。あなたの博識なところがタイプよ」

「なにそれ。見た目は好みじゃねーの?」

「外見ももちろん好きだけど、なによりわたしに靡かないところが好き」

「さっきプロポーズしたじゃん」

「たとえばもし、明日世界が終わるなら、いちばんに私の傍に来てくれる?」

あんまり極端な例えだったので笑ってしまう。

「可愛いね」

「本気で訊いてるんだけど」

「だから可愛いんだよ」

椿は決して人に媚びない。そういうところを気に入って傍に置いた。愛の欠けたおれの気持ちを咎めず、指摘せず、見てみぬフリのできる女だから彼女にした。結婚してもいい。椿はおれに適した存在だった。

「おれらなら結婚しても上手くやれるのに」

動物は理性を持たないという。
人間を人間たらしめるものは理性だ。大人が子を育て、子は大人を親にする。そうして人は変わってく。感情に折り合いをつけながら生きていく。
いつか美月の一番がおれでなくなるときが来る。

「好きなら、愛してあげればいいのに」

「なんの話?」

「あなたがいちばん大切にしてる子よ」

自分の限界を見据えた上で沈黙した。椿の瞳からこぼれた涙は、あまりにも綺麗で儚かった。
これ以上、椿に傷を負わせないようにおれは彼女の目元を優しく撫でた。

「椿」

もう一度その細い身体を組み敷くと、今度は「いやだ」とは言われなかった。
甘い蜜に溺れるようにキスをする。毛布の海を漂う手首を掴まえて、先端まで伝って指を絡めた。小指を甘噛みする。歯で砕けそうなほど細い骨が可愛かった。






ブラジルに直径30キロの隕石が落下した。

キャンパス2階のラウンジでソファに腰かけながらテレビの報道を観ていたおれは、ヒマラヤの雪が熱風で蒸発するところ見たかったと真剣に考えながら携帯を取り出した。

20時。美月は夕食を済ませた頃だろうか。

「アーヤ」

長いソファの延長線上に座ってる谷口が蒼白な顔でおれをみた。

「岩石蒸気が日本に到達すんのって」

「今日だな」

ワンテンポ遅れて、今夜0時に地球が滅亡すると報道が流れた。1分内でこれだけの情報を助長なく報道するということは事前に入手していたネタだ。日経は既に地球物理学の佐伯を招き、より詳しい情報の開示を行っている。

「げ、佐伯教授…」

佐伯はうちの大学の非常勤講師だ。平然とした顔で隕石のもたらす地殻津波と人類崩壊後の海の蒸発について熱く語っている。
谷口が両手で顔を覆った。

「こんな話、いまどういうモチベーションで拝聴すべきなのかわっかんねーよ…」

「コイツほんと狸だな。昨日の講義で平然と『僕が結婚する確立と隕石が地球にぶつかる確立は五分五分ですね』とか言ってた癖に」

「呪う。ぜってー佐伯呪う。コイツが着てるスーツ絶対新調したやつだろ。死ぬってわかってたから買ったんだ。クソヤロウ…おれだって死ぬ前に…」

「死ぬ前に?」

「童貞卒業したかった」

「じゃあレイプすれば」

妙案だと思ったので言ってみたら、谷口は虫の屍骸をみるように眉を寄せた。

「馬鹿言ってんじゃねーよ死ね」

「死ぬよ。地球もろとも皆」

チャンネルでテレビを消した。

「人間から常識という概念が取っ払われたとき、最弱で最下層になるのは人間の女だ。どう扱おうが問題ない。責める奴もいない。雄なんて元々そういう生き物だろ」

「発想が最低だな」

「なんとでも」

ガラス張りの壁から外をみると月が綺麗だったので澄んだ気持ちになる。地球最後の日が雨じゃなくて良かった。夜で良かった。
月を最後にみられてよかった。

「じゃあな、谷口。こんな非常時でも人としての理性と良心を失わないおまえは立派だと思うよ。せいぜい最期の瞬間まで安らかに」

「どこ行くんだよ」

「家に帰るよ。来週〆切のこのレポート、もう意味ないし」

「独りで死ぬつもりか?」

「おれと一緒に死にたいの? やめろよ。即興で選んだ相手と寄り添って死ぬぐらいなら独りでいい」

「そうじゃなくて、」

電話が鳴った。
この状況で回線トラブルに巻き込まれずまっすぐ繋がるなんて相当な奇跡だ。みればおれの携帯だった。奇跡が手の中で鳴いている。

美月。

表示された文字に息を飲んだ。
この瞬間、おれの脳内にはありとあらゆる惨事が脳裏を過ぎった。

そうだ、美月は女だ。
どうしてそんな事に気づかなかったのか。

「美月…」

人々は今、荒れ狂う波のように混乱してるだろう。魔が差す奴がいてもおかしくない。おれの体を恐怖が包む。レイプすればと笑顔で提案したあの言葉が心臓に突き刺さる。おれたち男は襲う側だ。人を殴れば眼球を破裂させ、腕力ひとつで人の尊厳を奪う行為もできる。

全神経が冴え渡り、気づけば通話ボタンを押していた。

「はい」

『あやみちゃん!』

弾むような声。周囲に雑音はなく、美月の呼吸は乱れていない。全身の力が抜ける。
遠くのほうで悲鳴が聴こえた。電話の向こう側ではなく大学内からだ。女が襲われたのかもしれない。

「アーヤ」

背を向けていた谷口から声が掛かった。舌打ち混じりに振り向く。谷口の話なんて聞いてる暇はない。いまは美月が優先だ。

「谷口、いま電話し」

唇に何かが押し当てられた。
それが谷口の唇である事に気づいたときには、手から携帯が滑り落ちていた。身体が離れる。

「長いことは言わない。ずっと好きだったんだ。15の春からずっと、おれはおまえに夢中だった」

ソファの下に落ちた携帯を拾い、谷口は微笑んだ。
赤い携帯を手渡される。谷口の指が通話口を覆うように被さった。

「さよなら。アーヤと、アーヤの大切な人の最期が穏やかでありますように」

歪みのないまっすぐな言葉だった。同性とキスした事実より、谷口がおれのことを好きだったということに衝撃を受けた。

背を向けてラウンジを後にした谷口を茫然と眺めた後、おれは通話中である携帯を耳に押し当てた。

「…美月」

『あ、あやみちゃん、いま携帯落と』

「なんの用?」

息を詰める気配が伝わってきた。携帯を握り締めて立ち上がる。美月には悪いが、今とりとめのない言葉を重ねるほど余裕はない。

「用がないなら切るぞ」

大学のラウンジを見渡して目を閉じた。
点々と置かれた丸いテーブル。囲むように並ぶたくさんの椅子。すぐ近くには自動販売機があり、その脇には薄型のテレビがある。正面に巨大ソファ。小さいクッション。学部生の休憩と交流のために作られたこのエリアがお気に入りだった。いま気がついた。たくさんの時間をここで過ごした事に。

明日世界が終わるなら、いちばんに私の傍に来てくれる?

かつて椿に言われた言葉だ。
女は柔らかくて冷たいから好きだ。からっぽの優しさしか与えられないから温かいものは貰えなかったけど、肌を重ねる瞬間はいつも気が紛れた。

おれは過去を思い出し懐かしむ趣味はない。なので小学生の頃に仲が良かった奴の名前さえ覚えてない。だけどあの時期、美月に思いを寄せていた年下の男のなまえはフルネームで覚えてる。

そういう、ことなのだろう。


もう認めてしまおう。
最期だからと自ら動いてキスを奪った谷口のように。

「美月。おまえもニュースみただろう。今夜が人類最期の夜だ。それを踏まえて答えろ。なんの用があって掛けてきた?」

傍にいたい。
怖いほど澄みきった心がそう願う。
願わくば、選んでほしい。

自分と共にある最後を。

『花火する?』

美月が言う。
賭けに勝った気分で目を細め、笑声を押し殺した。

「外は危ないから屋上でやるか」

ここから最短ルートで美月と合流するには、車で出勤してる教授の車をパクるのが早い。待ち伏せしよう。頭で計算しながら階段を二段飛ばしで降りていく。羽が生えたように身が軽い。

通話を終えた携帯をゴミ箱に捨てた。課題は階段に落とし、財布は1階の募金箱に突っ込み、家の鍵を強く握りこみ、大きく振りかぶって窓を割った。爽快な気持ちで外に出る。

「おっ」

窓から身を投げた生徒の死体を見つけて立ち止まり、子犬を眺めるように微笑んだ。

「派手に逝ったね」

応答のない体を跨いでしゃがみ込んだ。開いたままの瞼を降ろしてやる。

「誰だか知らないけどご愁傷様。来世では自殺なんて考えつかない動物になれるといいな」


本当はいつも、何をしてるときも空虚だった。

家が全焼して母が死んだあの日、火を放った犯人が父であることを知っていた。
家庭はずいぶん早くに崩壊していて、父は他所に女を飼っていた。キィキィと小動物のように高い声で父を罵倒する母が哀れだった。どんなに喚いても一度離れた心は戻ってこない。

母の癇癪に疲弊した結果の父の行為を、おれは黙認することを選んだ。

父も、おそらく殺すか殺されるかというところまで追い詰められ、殺すことを選択した。なにも家族全員で奈落に落ちることはない。警察や世間を欺いてでも結ばれたいと願う人間に出会ったと言うのならおれは何も言わない。好きに生きればいい。

たとえ存在を廃棄されたって恨まない。
そう思いながら生きてきた。

そう思いながら生きるおれの、最初で最後の拠り所が、美月だった。


口笛を吹きながら駐車市場に向かう。3台の自動車と2台の高級車。人生最後に乗るなら高級車が良い。

小さく両手を広げてみる。月明かりを救うように手のひらに指の影が落ちて、まるで光を両手に収めたようだった。神の祝福を受けている。錯覚なんかじゃない。だってこんなに気分が良い。

冷たい風が道路脇の草を揺らした。そこには小さい子供がいた。ツインテールに結った小さい頭。ひらひらと揺れるピンクのスカート。

「美月」

その背中に声をかけると、小さい身体は跳ね上って立ち上がる。右手に菜の花を持った美月が、おれを見つけて目を丸くした。瞳孔が伸縮する。狙いを定めるような猫眼が堪らなく可愛い。


『あやみちゃん』


幼い美月の幻が微笑んだ。
美月がいたから生きてこられた。美月はおれの居場所で、精神の支柱で、最愛だった。

世界が崩壊するというのに、夜空に浮かんだ月はまあるく、まるで宇宙にひとつだけ残された球体のようだった。

これからおれは幸福を迎えにゆく。






Fin.

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