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2024年になったのか
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出版社の鬼社長から連絡を受けたのは、出会ってから数日が経った頃でした。

「うちの会社、人手不足だからバイトしない?やる気があるなら正社員雇用もするよ」

Yと決別しようと考えていた時期です。


なにも言わないYが怖くて、いままで気にも留めなかった不在の連続さえ『捨てられるんじゃないか』と思うようになった、そういうときでした。
誰かに頼りっきりの生活は未来が見えない。

「ありがとうございます。ぜひ、働かせてください」

門出だと思いました。誰かに甘えるのはもうやめよう。自分の足で歩いて生きていこう。決意する前に返答した気がします。

私は長らく、心のどこかでずっと転機を待っていた。





「じゃあ、うちくれば?」

家探し手伝って。
ラクに告げたら同居を提案されました。

「いや私、自立したいんだけど」

「どうやって家借りるんだよ。保証人は?金は?」

「…でも私がここに住んだら、Y管理人からラクの家に住居変えるだけじゃん。なんにも変わってないよ」

「だれがタダで住まわせてやるって言った?」

そこから先は早かった。
Y管理人からラクの元へ移るまで3日もかかってない。家を出て行くといったときYは私にカードを手渡しました。いらない。断ると、長財布に入っていた札束をすべて抜き取って私に押しつけました。

「餞別」

「受け取れない」

「アホ。うちをペットに逃げられたアホな飼い主にする気か。うちがおまえを金で切ったと思ったほうが気が楽なんや」

10枚の1万円札を千円で留めた札束。
13枚。
130万円。
家族でも恋人でもない人から、こんな多額な金を受け取るのは気が引ける。

「10万でいい」

「あかん。ぜんぶ受け取れ」

「無理だよ。こんなお金、こわい」

「好意や」

「重いよ」

「それだけのことすんねん、おまえは。全部背負いや」

金で縁を切る。
わたしとY管理人の生活環境はもはや境界線など曖昧なほどに混ざり合っていて、共通の知人も遊び場も住みかもすべてを捨てるという私に、Yは「手切れ金」という名目でお金を渡しました。

「ちゃんと使え。金使うたび、うちのこと思い出すやろ。おまえはそういう奴や。罪悪感に駆られろ。苦しめ。潰れたら死ね」

Yの言葉が重かった。





バイトで入った出版社では、雑用が主でした。
半年間は簡単な事務作業。校正にテキスト入力。うちの社員はみんなコミュ力が高く、作家さんとの交渉・兼ね合いもとれていて、土日はきちんと休めている人が多かったです。職場の雰囲気はとても良かった気がします。

ここで「桜木」という上司に出会いしました。桜木上司は何度も私を『正社員に』と押してくれました。

「バイトじゃもったいないよ。うちの会社、海外旅行も経費で落ちるわよ!」

「取材ですか?」

「娯楽で」

それはもう経費ではないんじゃないか?
桜木上司は言いました。


「この世は稼いだもん勝ちよ。わたしは一生、結婚はしないの。子供もいらないわ。欲しいものは全部お金で買えるから」


桜木上司は少しだけ、Y管理人に似てました。

道徳や倫理観を疑うようなことを平気で言ってのける桜木上司が好きでした。
馬が合うというのか、とにかく彼女はわたしの扱いが上手かった。効率よくわたしを動かし、効率のいい仕事の手順を教えてくれました。


とある作家の握手会。
指定した時刻に花が届かず、企画者に散々頭を下げ、泣きながら近くの花屋に花を買いに行ったことがありました。めかして来いと言われたので高いヒールを履いていたのですが、走り回ってるうちに靴擦れして、靴を脱いで往来を走りました。

もう仕事辞めたい。
初めて心が折れたその日、桜木上司は銀座で服とスニーカーを買ってくれました。

「前々から思っていたのだけどアナタ、いちばん美しかった頃の工藤静香に似てるわ」

「工藤静香って誰ですか?」

「キムタクの奥さんよ。いやねぇ、平成生まれは怖いわ」

彼女の怒り方が好きだ。
キレると叱るの違いを理解して、相手のためになる怒り方をする。失敗したときはその場で一喝して、あとに引き摺らない。何度も掘り返して責めることをしない。仕事が終わった後は一切持ち出さない。話のネタにもしない。

「今日は十五夜だから、月をみて帰りなさい」

彼女は季節を大切にする人でした。
仕事だから季節を意識するというより、心から日本の四季を愛していたように見えました。

しんどいことは沢山ありました。
そのたび支えてくれたのは桜木上司でした。

わたしは沢山のことを学び、一年が経つ頃にはだいたいの仕事を回せるようになりました。

ドラマで見たような仕事内容から、「こんなことまでするの?」と思うようなことまで、とにかく幅広い仕事内容だったように思います。

なかでも驚いたのが、とある作家の注文です。

「家の周辺をス/ト/リ/ー/ト/ビ/ュ/ーに映さないよう掛け合ってくれ」

そんなことできるのか。そう思いつつ、その容貌はうちの会社を支える大御所作家さんからであったため無碍にもできず、桜木上司に相談。

「できるわよ」

「えっ、できるんですか!?」

「あたりまえよ。できるに決まってるじゃない」

企業秘密のため詳細は省きますが、とにかく金持ちはプライバシーすら買えるのだなと感心しました。





ラクとの同居は気楽でした。
まず育ちが似通っているので行動も似てる。

スーパーで買った惣菜をいちいち皿に移すとこも、柔軟剤は少し値が張るものを選ぶところも。小さい頃からお食事会に参加していた癖なのか、皿とグラスを左手で持ち運ぶ仕草さえ一緒。
ラクとの生活を一言で表すなら「穏やか」だった。

同世代のライフステージが変わり始める。会社で同い年の子が飛躍する。院を目指す友達に見下されているような気分になる。ぼんやりとした不安を口にするたびラクは笑う。

「あんま煮詰めなくていいんじゃね。同世代とか同期とか気にしすぎ。おまえドジだから、他人のスピードに追いつこうとして急ぎ足になると転ぶぞ」

私を呼ぶラクの声が好きだった。

押さえつけるような母親の呼び方でもなく、試すように呼ぶゆいの呼び方でもなく、そこにある記号を読みあげるような、席を立ち教科書を読む、遠い日の彼と同じその声で。

過干渉。
ラクと生活するようになり気づいたもの。

わたしの周りの人は皆、自分以外の存在に過干渉だった。

母も、ゆいも、花も、義母も、Yも。べっとりと密着して離れない状態に安堵していた。わたしが愛と呼んでいたものをラクに教えたら「依存」と言われた。

依存。



春。

決め事をした。ゲーム好きのラクとネットサーフィンが趣味のわたしが一緒に暮らすと、電気代の請求額が恐ろしいことになった。心地よい居場所を作るためにひとつひとつを改善した。

ラクがわたしの帰る場所になった。


夏。

目的もなく夜の道を散歩する。窓に風鈴をぶら下げた。冷房の温度で喧嘩した。腹が立ったので黒烏龍茶を「コーヒーだよ」と言って出した。ラクは黒烏龍茶に砂糖とミルクを入れて飲み、「ふざけんな!」と一喝した。また喧嘩した。

しばらく別々のベットで寝て、どちらからともなく寄り添いあった。


秋。

徒歩5分のコンビニに行くときすら化粧をするわたしをラクは置いていく。そんなラクの行動を熟知してるわたしは先回りしてラクの靴を隠す。ラクは呆れて、それでも笑って探し始める。

コンビニまで手を繋いだ。


冬。

抱き枕を買った。ふとっちょのねこのぬいぐるみ。「たむたむ」という名づけた。たむたむは悪意なき洗濯機の遠心力で痩せこけ、抱き心地が悪くなった頃に捨てた。ラクは少し寂しそうに最後の記念写真を撮っていた。馬鹿だと思った。

しょうがないから私も一緒に写ってあげた。


眠っているラクをみると心が癒される。
感情に荒波が立たない。風のない穏やかな海のように心は凪いで、周りの人の動きがみえる。これがきっと、恋をしていないわたしの、元来の性格なんだ。

「結婚しない?」

2人分のマグカップを持つ手が止まりました。

「…驚いた。ラク、結婚願望なんてあったんだ」

「いやぁ、べつに無かったけど」

テーブルにカップを置く。
ラクが愛情に満ちた瞳でわたしをみて、微笑んだ。断られることなど微塵も疑わない澄んだ瞳だった。

「おまえと家族になりたい」

家族を持ちなさい。
とおく、遠くに行ってしまった先生の声が頭を過ぎる。母を求めるばかりに周囲を大切にできず孤独に生きた幼少期のわたしが、新しく持つもの。

家族。

姿勢を正した。

「わたしも、結婚するならラクがいい」

共に一緒に生きていくには、これ以上ないほど「適切」な人だった。







「ほい」

「え。指輪?」

「うん、指輪」

「形から入るひとだ」

「うっせ」

幸せだった。
生活は満ち足りていた。

「こちらが婚姻届です」

「わ~。初めて書くわ」

「当たり前だばか」

週3以上のセックス。
週末デート。国内旅行。ケーキ屋巡り。お揃いの部屋着。共通の友達。安定した仕事。人より多めな収入。贅沢な毎日。変わらない日常。

「おれが本屋でゼクシィを買ったときの心境を答えなさい」

「ドキドキ?」

「ちなみに男友達と一緒に買った」

「店員もドッキドキだな」

ウエディングドレスの試着。新婚旅行のプラン。大きい部屋へのお引越し。友達からの祝福。

「明日さ、ここの薔薇風呂があるホテルいってみねぇ?」

「薔薇風呂…なにするの」

「入ろうよ。美容に良さそう」

「女子力高すぎ」

「嫁よりな」

「ラクが旦那かぁ~」

利口でユニークな旦那。将来もしっかり見据えてくれるわたしの伴侶。残りの人生を一緒に生きていく人。

満ち足りていた。なにもかも。美しい景色のなかで移りゆく季節を眺めているような、暖かい時間だった。

ここがわたしの、最後の岐路だった。





娯楽施設が高々と立ちそびえる繁華街。

終電を逃した大学生の集団が群れを成すように広がって歩き、道路の真ん中では夜遊びに不慣れなOLがホストのキャッチに引っ掛かり、キャバクラ帰りのサラリーマンが空車のタクシーを捜し、路地裏では酔った男女が絡み合うようにキスをしてる。

そんな夜。
いつもの夜だった。


声が、似てる。

最初にそう思った。


振り返りはしなかった。
隣にはラクがいた。

お互いほどよく酔っていて、薔薇風呂でなにしようかなんて、悪戯っぽく笑って、しあわせな恋人みたいなにじゃれ合いながら。


声がする。
彼女の声に似た、あのこえが。
ラクも、心の中では同じ声を追ってたのでしょう。
自然な素振りできょろっ…と視線を動かした、

そのときでした。


「…えっ、まってまって、うそー!?」


ちょっと高めの甘い声が聞こえて、全身が凍りついた。

数歩あるくだけで10人以上とすれ違うだろう大きな道路の、ちょうど向かい側から歩いてきた女性が、こちらに向かって声をあげた。

背の高いラクが、そちらを向いたままビシリと固まって息を呑んだ。
その途端、急に心臓がドッと狂ったように暴れだして、繋いでいた手を無意識に振りほどきました。

「う、わ…」

こちらに近づいてくる足音を聞きながら、ああこれは因果なのだと思いました。


驚愕は一瞬だけでした。

心の奥底で、何かが息を吹き返したような感覚がありました。ずっと止まっていたものが、もう二度と動かないと諦めたものが。

たったひとりに捧げた心が。

恋が。


「すごーい。これ奇跡の再会じゃん!」


性別を問わず人を魅了する笑顔。
その、表情の作り方。きれいな身体のライン。すらりとした足。白い肌。おおきな瞳。かわいい声。センスの良い衣服。

この世界のなにもかもが彼女を祝福しているような、あたたかい風が吹く、春の夜。

かつて私が、心から愛した人。

心臓が止まったかと錯覚するほどの衝撃でした。

もう二度と会わないと思ってた。もう二度と会えないと思ったから、だから私は、ラクと。


心臓が痛いほど高鳴って、だけど頭の冷静な部分がとっさに彼女の左手の薬指を確認して、マーキングされていない指に安堵して、それからまた、苦しくなる。

寂しさを分け合ったあの指先が、頬を撫でるときの幸福を覚えてる。

懐かしい。千本の針で心臓を囲い、突き立ててゆっくりと伸縮をくりかえすような。死ねない、のに、死ぬほど痛い。そうだ、こういう痛みだった。

怖い。その声を聞くだけで、すべてが昔に巻き戻る。強制的に。この感覚が。とてもこわい。

ゆいはラクに向かって、にこにこと愛想よく笑った後、ゆっくりと視線を流すように私をみました。

「久しぶり。私のこと、わかる?」

彼女だけがいつも世界でただひとりだけ違う色をしている。彼女はどうしてこんなにも、こんなにも美しいのだろう。





彼女と再会した夜はまるで脳に録画してあるのかと疑うくらい、鮮明に鮮明に、覚えてる。

上京して3年目の月日が流れた夜でした。
夜のネオンがきらきらひかるその街を、拠点としていた22歳の春。

どばっと。突然泣き出した私を、ゆいは声をあげて笑い飛ばしました。

「どんだけ酔ってんの?ウケる」

声がでなかった。
どの言葉も適切じゃないと思った。感動のような、懺悔のような、悲鳴のような、祈りのような、そんな泣き声しか出てこなかった。

彼女のなかで私はいま、どんな存在なのだろう。
私はまだ、あなたを過去だと割り切れない。


ゆいも酔ってたのでしょう。
ゆいの連れが「この子どうしたの?」と笑って近づいてきました。ラクは困惑したままゆいと私を交互に見たあと、私を庇うように肩を抱きました。

「ごめん、コイツいますげー酔ってて」

「付き合ってるの?」

無邪気な風を装って、その目には探るような色が垣間見えました。ラクは怯むことなくゆいを見下ろしました。

「入籍した」

「…え?」

「結婚したの、おれら。邪魔しないでね」

押し飛ばすようにゆいにぶつかり、私の腕を引いて早足で歩くラクの顔は真っ青でした。

ラクの気持ちは痛いほどわかってる。
あれだけ好きだと、大切だと伝え合った私が、繋いでいた手を振り解いた。

ゆいに、一瞬で心を奪われた私をみて、どう思ったか。


「ねーーー!!!!」


その場にいた全員が振り返るほどの大声に、私もラクも足を止めて振り返りました。

なにを言うのかと息を呑み、ラクはそんな私をみて強引に腕を掴んで歩かせました。

「私の携帯番号、まだあのままだよー!!」

ゆいの言葉が背中にぶつかる。
わたしに向けての言葉だ。ゆいが、ゆいが言ってる。わたしに。


電話番号は暗記してる。
一生消えない傷のように、脳に擦り込まれてる。


言葉を耳にした瞬間、未来がみえた気がした。いまある幸せをすべて手放してゆいに服従する。仄暗い幸せが。

「…っはやく歩けよ!!!!」

ラクが大きく舌打ちして、大声で私を叱りつけました。

すぅーっと冷めていく心でラクを見上げて、掴まれた腕をただただ「痛いな」と思いました。痛いのは苦手だから放してほしい。私からすれば急激な変化ともとれる感情が、心を支配していきました。


もうだめだ。

理性の利かない部分が、動いた。

心のすべてが、ゆいに向いた。







「おれを選ぶべきだね」


ホテルのベットで、ラクは言いました。

今までに無いくらい長い時間をかけた前戯で、衣服を脱がない彼が全然気乗りしてないことは薄々気がついてた。とにかくそれは男女のセックスだった。あれだけ自由が利かないセックスは初めてだった。玄関で、鏡の前で、ベットの上で。

「ゆいはダメだ。お前たちは一緒にいても傷つけあうよ。ふたりなのに、違う。たぶん、ふたりだから。お前たちは一緒になるとお互いしか見えなくなる。もう忘れろ。義務で通った学校はもうない。距離があれば忘れられる」

わたしにとってラクは、この世界で誰よりも距離の近い理解者でした。
唯一、望めば手に入る存在。

とにかく強引に、一方的に、私がなにかしようと動くたび「気が散るからやめて」と制して、ラクは作業のように私に触りました。

「賭けようよ」

もう終わるというときに、ラクが言いました。最近また痩せこけてきた私の下腹部をそっと撫でるラクの指先に、ぞっと悪寒が走りました。

殺されるのかも。
一瞬だけ、思いました。

「いま何考えてる?」

「おまえのことだよ」

愁いを帯びた瞳で私を見下ろしたラクに、得体の知れない恐怖を感じました。

「最近はいつも、おまえのことだけ考えてる。どうしたら、おれだけのものになるかなーって」

私はセックスの最中、ほとんど声を出さない。
いぬねこが発情したような高い喘ぎ声が少し苦手で、これはきれいな行為じゃないと、戒めのように思ってた。いま思えば、私はセックスが好きじゃないのだろう。

「簡単だね」

大声で抵抗したのは本能でした。
この行為をたくさんの人とするようになってから、セックスは私にとって、コミュニケーションの一種だった。セックスは子を成す行為だという認識が薄かった。

「子供作ろう」

一度も許したことのないそれを、初めて経験しました。

最悪だ。
自分の生理周期と排卵日をとっさに計算して、いちばんリスクの高い日だと割り出したとき、頭が真っ白になりました。

「最っ低!!!!」

大きな声で怒鳴れば、ラクは「そうだねー」と無関心な声で言いながら「もう寝よ」と背中を抱きしめてきました。

「おまえの恋愛がどうしてうまくいかないか、考えたことある?」

同じ布団で寝られない。
隣で眠る体温すら気持ち悪くて、わたしは身体を捩ってラクの腕から抜け出しました。
ラクは構わず続けました。


「なんでもかんでもゆいを基準にしてるんだよ。だから誰とも合わないし、おまえのほうも、合わない相手に必死になれない。誰かに振り回されたり、傷つけられるのが我慢できないんだよな。ゆい相手なら、傷ついてもいいって思えるくせに」


電気を落とす。なにも見えない。明日は朝一でアフターピルをもらいにいこう。

「いままでおまえが選んできたのは黒髪の美人系ばっかりだったけど、おれと別れたら次は茶髪の女と付き合うよ」

「……。」

「さっきみたゆいが茶髪だったから。選べる範囲が広がってよかったなあ。ほんと犬みたい、おまえ。いつまで待ってんの?ゆいは帰ってこないよ。そういうやつじゃん。何度だって捨てられるよ」

話し合いすら億劫でした。
ラクが何を考えているのかわからない。わかりたいとも思わない。失恋じゃない。元々私たちを繋いでいたのは恋じゃない。
わたしたちは、たぶん。

「子供ができたら『ゆい』って名前にしていいよ」

思考が止まりました。

いまこの瞬間、もはや愛情の一欠けらすらない与えられない心が、少しだけざわつきました。
振り向くと、ラクは泣いていました。

「それでも愛せなかったら、血の通った人形を育てると思えばいい。おまえが愛せないぶん、おれが愛情込めて育てるから」

わたしがこの人を捨てたら、彼は一人になる。


「そばにいて」


ごめん。

理解していたのに、次の日わたしは、泣き喚くラクを一人残して産婦人科にいき、アフターピルをもらい、当日入居可能なウィークリーマンションを探し出し、そのまま引っ越しました。

愛よりも恋を求める心を「若かった」と、そう笑い飛ばすことは、まだできない。





電話番号を変えてない、というゆいの言葉の真偽は、正直なところ五分五分だと思ってました。
高校時代の一件を考えるなら弄ばれた可能性も否めない。

どっちだろう。
どうだろう。

昼に一度、携帯から電話をかけました。
コール音は鳴りました。使われてる番号だ。

1コール、2コール…

期待が膨らんで、同時に、嘘だったときの覚悟を固めました。死ぬほどきついだろう。1分にもみたない再会で、言われるがままにすべてを捨てた私はとても滑稽だ。もうラクの元には戻れない。

4,5,6…

ぴた、とコール音が途切れました。全神経を研ぎ澄ましながら、相手の出方を伺いました。

「もしもし?」

ゆい、でした。
聞き間違えるはずもなく、それは正真正銘彼女の声です。わたしがもし犬なら、ぶんぶんと大きく尻尾を振っていたでしょう。それくらい大きな喜びでした。

声がでなくて、第一声なんか頭から吹っ飛んでると

「どうしたの、また泣いてるの?」

と声がして、それをきいた瞬間に泣き出しました。

「ゆいに会いたい」

ぼろぼろと泣きながら必死に懇願しました。
平日の昼間だ。

大学生ならキャンパスにいるし、社会人なら会社にいる。あの高校を卒業した人間は、結婚でも考えない限りほとんどは院まで進む。あるいは起業してる可能性も否めない。

ゆいはどれだろう。どんな未来を歩いてるのだろう。いまどこにいるんだろう。会いたいと望んで会える距離なら、わたしはどこにだって飛んでいく。

「んー。いーよぉ」

メモを取る暇もなく伝えられた住所を刻み込むように暗記して、化粧もせず財布と携帯だけをもって、ゆいのもとへと向かいました。






すごいな。
純粋にそう思った。

この感覚はなんなのだろう。
黒を白と呼ぶゆいの言葉を聞けば、色彩は覆る。

ゆいが歩いた道が輝く。ゆいが笑うと光が満ちる。ゆいが厭うものを消してあげよう。ゆいが欲しがるものを捧げよう。

ゆいが。
ゆいが、ゆいが、ゆいが。


アナタに捧げる気持ちを恋と呼ぶ。
それがときどき、なんだか、とてもこわくて。


愛は芽生えるものだけど、恋はきっと、他人から学ぶものなのだ。だから定義が曖昧で不確かで危うい。教える相手によって学び方も異なるから。
恋を私に教えたのはゆいだ。彼女の為に発生した感情を、彼女以外のだれかに注ごうとしたところで適合するわけがない。

だいすき。心から。
こんなにも深く、深く。

「相変わらず馬鹿だねぇ。こんなに簡単に信じたら、いつか騙されるよ」

そんなの構わない。
人間としての尊厳も、権利も、あなたが欲しいというならいくらだって捧げる。

操って。昔みたいに。必要として。騙されてもいい。本当か嘘かなんでどうでもいい。
あなたの言葉をすべて肯定してあげたい。それであなたが満足するなら。あなたの声が聞けるなら。


顔を覆って泣く私を、先に抱きしめたのはゆいでした。

「あれ、ちょっと太った?食べることに興味無さそうだったのに、やっぱ人って変わるんだねぇ」

背中に回された腕に、声が出ないほど歓喜しました。

なにひとつ、だれひとり、許せなかった、心の柔らかい部分が、ゆいの鼓動を聞いて悦んでる。
ここが私のあるべき場所だと、この人だけが欲しいのだと、必死で、必死で叫んでる。




怖かった。
愛と呼んでる今はまだいい。膨大なこの気持ちが、いつか何かに変わってしまったら。
彼女を傷つけるなにかに。



ゆいとの再会は、また少しずつわたしを、ゆっくりと変えていきました。




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